高等部泉中央教室
努力じゃ飯は食えない,どうも紫竹です.
努力は自分にとっての経験値として価値が生じることはあっても,
他人にとって価値のあるものになることはありません.
例えば,
私が数学の勉強をする(努力)→ 数学ができるようになる → 教える(他人にとっての価値)
というフローを見ると,努力が根源にあったとしても,
それが直接価値に変換されてはいないことがわかります.
「数学ができるようになる」という成果や結果が,一般的な価値を生むのです.
厳しい言い方というか,少々意地悪に言えば,
成果の出ていない努力は自己満足でしかないわけです.
世の中のすべてがそうです.
どんなに稽古をした漫才師でも,面白くなっていなければ誰も聞いてくれません.
どんなに修行を積んだ料理人でも,美味しくなければ誰も食べてくれません.
「それで何ができるようになったのか」がすべてです.
そこに至る過程は,成功者が昔話でマウントを取るためのもの,と断ずることもできそうです.
まあ勉強もそうですよね.
毎日10時間勉強したけどテストで25点だったとして,
「10時間も勉強したんだから仕方ない!それでOK!むしろすごい!」
なんて誰も言ってはくれないでしょう.
だから私は数学のLIVE授業をやめました.
LIVE授業なんて,ただ座っているだけでも勉強した感覚を得ることができる儀式でしかないのかもしれません.
何もできるようになっていなくても見過ごされてしまう可能性が高い学習方法だと私は思います.
クラス人数が多くなればなるほどそうでしょうし,
その90分の授業で何ができるようになったのか,明言できる人ってどれだけいるのでしょうね.
その証拠に,LIVE授業のままだったら確実についてこられなかったであろう生徒が,
映像+LINE+添削のメリットを最大限駆使して,猛烈に頑張っていたりもします.
人一倍なんてもんじゃない,十倍,いや百倍は頑張っています.
1回の添削課題を完遂するのに丸3日,LINE約50往復とかしてます.
「時間かかっちゃってごめんなさい」なんて言われるのですが,
私は呆れも怒りもせず,何度でも説明や指摘をしています.
これまでだったら救えなかった高校生を救えている確かな実感があるのです.
こんなに嬉しいことが,塾講師冥利に尽きることが他にあるだろうか!
誰から教わるかも,どうやって教わるかも,実は些末な方法論でしかなく,
できるべきものができるようになることと,それを自他が確信できるようにすることこそが,
真に重要な事柄なのではないでしょうか.
あすなろ学院は,できるまでやるのです.
できることを誤魔化さずに確認することに命を懸けるのです.
そんな粘り強さで,当面の受験だけでなく,
この殺伐とした世の中を強く生きていける人になってほしいなあなんて,
大それた老婆心もうっすら持ち合わせているのかもしれません.
今日の音楽は Hakubi『22』 です.
詞の変遷が胸を打ちます.生きることを歌っている.
高等部泉中央校 紫竹