1. 記述の仕方。

記述の仕方。

高等部泉中央教室

どうでもいい,どうも紫竹です.

高校数学を勉強している高校生からはしばしば

「これはどういう風に記述すればいいんですか?」

「この記述で大丈夫ですか?」

などと質問されます.

 

これが実にどうでもいい話なのですが,なかなか受け入れてもらえません.

私の目には「記述の呪い」のようにも映ります.

 

なぜこんなにも記述の仕方に執着してしまうのでしょうか.

推測できる原因としては,

「記述の仕方で減点をされた経験があるから」

があります.

 

確かに,生徒から学校の定期テストの答案を見せてもらうと,

記述の仕方による減点を観測することが多々あります.

 

「排反だと断っていない」

「場合分けしてから最後にまとめていない」

「1次独立だと断っていない」

「数学的帰納法のn=1の場合とn=kとかの場合の順番が逆」

「2θ+π/4の値域を不等式で表していない」

「底>1と断っていない」

「軌跡の問題で逆も成り立つなどと書いていない」

「二項定理の問題で一般項を示していない」

 

これらははっきり言って「どうでもいい」です.

「理解しておかなければならない」のは事実ですが,

それを書くかどうかは「どうでもいい」です.

 

この問題は「何を自明とするか」に関わります.

そして,教科書を含む書籍や,私を含めた指導者にも矛盾が内在します.

 

例えば最初に挙げた「排反」の件ですが,

複数の場合に分けて確率や場合の数を求めた際には,

それらが「すべて排反であるから」足し合わせて正解を得ることができます.

「だからそれを書け」ということなのでしょうが,

すべての問題でそれを書いていたらきりがないのです.

 

現に,反復試行の確率を求める際には省略されている書籍や指導者が大半でしょう.

しかし,あの公式のnCkという値は,場合の数を表示しており,

「各場合がすべて排反で同じ値(確率)だから,

足し合わせることは場合の個数分掛け算することと同じ」

という意味です.

 

「必ず排反だと断りなさい」という指導方針なのであれば,

反復試行の確率の公式(常識)を用いるすべての場合について

「排反」だと断るよう指導しなければ矛盾してしまうのです.

 

そうかと思えば,

「AであるにはBであればよい」

という表現はスルーされがちですね.

これは「AとBが同値」という意味ではなく「A⊃B」という包含関係を意味します.

Bは必要十分条件ではなく,十分条件だということです.

 

ぶっちゃけ私自身も「~であればよい」という表現を同値のような意味合いで用いている場面があります.

日本語の表現自体が持つ特有の曖昧さに起因するところもあると見ておりますので,

「日本語で書いたor書いてない」は点数を動かすほどのエラーだとは思いにくいのです.

 

そういうわけで便利な記号があります.

「∴」

TPOに合わせて自在に意味を変化させる魔法の記号「ゆえに」です.

 

論理はきちんと理解したうえで,「∴」で表現して変な上げ足を取られないようにする,

というのが損をしない戦い方なのでしょうかね.

 

木を見て森を見ないような指導は望ましくないと,私は思います.

 

今日の日本酒は 『天明 中取り零号 純米生酒』 です.

とんでもない美味さでした.もはやスイーツ!

 

今日の音楽は face to face 『Blanked Out』 です.

まだやってたんだなあ.

高等部泉中央校 紫竹